主体性を求められる怖さとその理由
自由でいい、個性を主張していい、多様でいいのである、と言われる現代。
私が若い頃は、社会的常識があり、大人たちに「こうあるべき」「こうすべき」という道筋をつけてもらい、そこを行くだけで良かった。
先日、これからキャリア形成をしていくという若者が「主体性を求められることが怖い」と話してくれた。
自己主張していい、と言われても、したらしたで、やはりそこには受け入れがたいという空気が存在することがあるし、と。
過渡期なんだろう。
しかし、一体過渡期はいつまで続くのだろう。あまりにも長いなら過渡期とはいわない。
もしかしたら、時代は繰り返される、で、また一つの同質の価値観が幅を利かせる時代が来るのかもしれない。
怖さのもう一つの理由としては、責任を伴う、ということ。
自分で決めるからには、最後まで自分が責任をもつ、ということ。
主体性には、責任が伴う。
「依存」
決められた「こうあるべき」「こうすべき」というあるべき論。
親として 娘として 女性として 仕事とは 家事とは 人間関係 恋人関係
ある意味で、「依存」は楽。
言われた通り、教えられた通りに進めばいい。
こういえば褒められる、喜ばれる、というのは人間の承認欲求である。
間違っていれば、どこかで他のせいにできる。
自分の人生は、自分のもの。
本来、自由であり、主体性にあふれていて、責任が伴うものであった方が、納得感ができる。
満足感もできるだろう。
この年齢になり、大きな時代の転換期に、私自身も常に揺れ続けている。
※天橋立 ロープウェイ

留言